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ピアッティ家の歴史

ロースドルフ城主夫人  ヴェレーナ・ピアッティ

ロースドルフ城ミュージアムの陶片の間を守ることは、私にとっていつも平和を守ることでした。芸術は、たとえ形を壊されても、そこに宿るアイデアは壊れることはないと、私は思っています。芸術に託された創造のエネルギーは永遠に生きるのです。陶磁片コレクションを守ることで、そのエネルギーは存在し続け、そのエネルギーを通して歴史の一端に触れることになるのです。

 

2015年に私の義姉ラシュミ・ツィンブルク(当時の駐日オーストリア大使ベルンハルト・ツィンブルク夫人)が開いた在日オーストリア大使館での茶会で、私が保科眞智子さんと出会ったことが、陶片にとって新しい運命の始まりとなりました。アイディアを得て作品は作られ、売られ、買われ、集められるというサイクルは続き、そして破壊された後もそれまでの記憶を守りながら、また新たなアイディアを得て、再び巡っていくのです。

 

このプロジェクトは多くのボランティアと寄付をしてくださる方々の助けによって実現し、150年ものあいだ両国をつなげた友好関係を更に深めることでしょう。

ピアッティ家の歴史

古文書によるとその出自がギリシャにあるピアッティ家は、南イタリアのカラブリアを経て、北イタリアに移り住みました。一族の文献上の初出は、1239年のパスィターノ・ピアッティで、1520年にはイタリアの貴族の称号”Marchese(侯爵)”を名乗ったジャコモ・ピアッティの名前も見られます。 

その後、アレッサンドロ・ピアッティ侯爵(1722-?)、フェルディナンド・ジュゼッペ・ピアッティ侯爵(1732-1777)兄弟はイタリアを去り、7年戦争(1756-1763年)に参戦しました。その終戦の年に、兄弟はザクセンの首都ドレスデンにその居を移し、宮廷で高い地位(大臣/侍従)につきました。

アレッサンドロは生涯未婚でしたが、フェルディナンドはフリーデリケ・ルイーゼ・フォン・エルドマンスドルフと結婚しました。エルドマンスドルフ家は、当時ザクセン宮廷で甚大な影響力を持つザクセンの貴族で、フリーデリケ・ルイーゼの父はポーランド王/ザクセン選帝候であるアウグスト強王の秘書官を務めていました。

彼らの三男のパオロ・エミーリオ・ピアッティ侯爵(1771-1834)は、ポーランドの貴族出身のカロリーネと結婚し、ザクセン宮廷で名誉ある職務につき、ザクセンの代表陣の一人としてウィーン会議にも出席しています。このパオロ・エミーリオが現在のピアッティ家に繋がる人物です。

その後、彼らの息子のフリードリヒ・アウグスト・ピアッティ侯爵(1803-1872)とその妻ツェツィーリエ(コラルト‐サン・サルヴァトーレ伯爵嬢)は、1820年代後半にオーストリアのロースドルフ城に移り住みました。また、フリードリヒ・アウグストは、ピアッティ家の貴族の称号“Marquis(侯爵)”に加え、オーストリア皇帝フェルディナンド一世からオーストリアの貴族の称号“Graf(伯爵)” (英語ではCount)を1842年に授かりました。

最初の陶磁器収集家たち

現在のピアッティ家に受け継がれる数多くの東洋陶磁は、イタリアからドレスデンに移り住んだアレッサンドロ、弟のフェルディナンド・ジュゼッペとその妻フリーデリケ・ルイーゼによって収集し始められたものと思われます。当時、ヨーロッパの宮廷では、東洋のやきものが大変もてはやされており、金より価値があったと言われていました。

陶磁器収集は、フェルディナンド・ジュゼッペの息子のパオロ・エミーリオ、さらにその息子のフリードリヒ・アウグストにも引き継がれました。

また、フリードリヒ・アウグストはザクセン王国の第二代国王であるアントン王(1755-1836)と極めて近い関係にあり、彼の働きと忠誠に対する感謝の印として、アントン王からマイセン製の壺一対が贈られています。(その壺は陶磁片コレクションの一部として、現在もロースドルフ城に受け継がれています。)

第二次大戦までの陶磁器収集

フリードリヒの息子のフェルディナンド・ピアッティ侯爵・伯爵の代以降も、ピアッティ家では代々、陶磁器コレクションを維持し、拡大していきました。

旧ソビエト軍に城を接収された第二次世界大戦時には、当時の城主フェルディナンド・ピアッティ侯爵・伯爵(1899-1980)と妻アンナが、城の地下室に陶磁器コレクションを隠しました。しかし残念なことに、終戦の直前に隠し場所を見つけた旧ソビエト軍により、陶磁器の大半が破壊されてしまいました。戦後、フェルディナンドはその破片を破棄することなく、膨大な量の陶磁片コレクションとして城の一室に展示し、一般に公開するためにミュージアムを開いたのです。

現在の陶磁器コレクション

フェルディナンドの息子で第二次世界大戦を唯一生き残ったマンフレッド・ピアッティ侯爵・伯爵(1924-2010)は、ポーランド・ハプスブルク皇帝の末裔であるハプスブルク女大公メヒテルディスと結婚し、陶磁器コレクションを長男であり現城主のアルフォンス・ピアッティに託しました

 

アルフォンスは現在、城周辺に所有する土地で農林業を経営し、妻ヴェレーナ(古いオーストリアの貴族で軍人の家系であるツィンブルク家の出身)は、城の管理-とりわけ文化イベントの運営と陶磁器コレクションを含むミュージアムの運営・管理-を行っています。

ロースドルフ城の歴史

ロースドルフ城はもともと中世に要塞として建てられました。文献上の初出は1320年ですが、ある古文書によると、すでに10世紀には建てられていたようです。長らく、城の所有者は頻繁に変わっていましたが、1740年にリヒテンシュタイン家の所有となりました。

 

そして1820年代後半に、フリードリヒ・アウグストと妻ツェツィーリエが陶磁器コレクションと共にドレスデンからロースドルフに移り住みました。それ以降、現在にいたるまで城はピアッティ家の所有です。ロースドルフ城はその長い歴史ゆえ、中世と古典主義そしてルネッサンスの様式を併せ持っているのです。

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